三線
ということで私丸野である。世の中にはいろいろな楽器が満ち満ち溢れている。ハーモニカ、オカリナ、タンバリン、笛、カスタネットにジャパネッ○。私もまだまだ気持ちはヤングでありナウロマンティックである…ガールにもてたい、愛し、愛されて生きたいのさを心の命題と課して多少楽器をかじるももてず、愛されず愛されないで生きてきた私がまたもや性懲りもなく新しく楽器をすることになった。それは何を隠そう自由と永遠の地沖縄という土地に根ざした楽器三線である。これは先述したもてたい衝動とはまったく別もののであって寝ても冷めても起きても食べても戸川純氏やゴーバンズの曲を聞いているときでも常に沖縄の空を想っている沖縄ウルトラ好きの私にとっては極自然の流れだったのかもしれない。少々その流れを受け入れるのが遅かったとは思うが。ただ、今までその流れにあえて反していたのはあのシンプルで人間味のある三線の音を聞くとあの地を思い出してたまらなく帰りたくなる衝動にかられ、切なくなりつい書を捨てて沖縄に出ようと思いたってしまうからである。感傷にフォールインラブなのである。まぉそんなことは言っていたら何もはじまらないとまらないかルビーかっぱえびせ○である。誕生日に三線をいただいたのを機にこの青二才な私めがとうとう沖縄の地に違った角度からアプローチをすることにあいまった次第である。弦が三本張ってあるだけだもん、こんなのオチャノコサイサイだわと思ったのも束の間、これが非常に難しい…はじめてエレクトリックベースを弾く前も同じような認識だったが完全に覆された…非常に奥が深いのだ。構造がシンプルなものはそれに相反して奥深き難解性を秘めているのかもしれない。まず音程が全くわからない、そして爪弾いてみてもあの空や海を連想させ心がお湯に浸かったような穏やかな気持ちにどうもなれない…それもそのはず、自分の中での三線像に従っただけの稚拙なアプローチ、これでは三線にそして沖縄に受け入れてもらえるはずもない。郷に従おうと思い沖縄三線という教本を片手に基本に立ち返ってみた。これがなかなかに面白い、このシンプルな楽器に様々なルールや決まりごとがある。我々が普段慣れ親しんでいるドレミファという音階ではなく乙、老、工で示された新しい道標。素直に新しい発見があった。細かいことやルールが非常に私は苦手なので、いつもなら、すでに教本を開けた時点でべらんめぇなんぼのもんじゃい!こんなのロケンロールじゃない!とちゃぶ台をひっくり返すとこではあったが全くそういう気にならなかったのは自分でもとても不思議であった。あぁ三線よ、なぜあなたは三線なの…と思わず一言。大の大人にこんな言葉を言わせてしまう三線、もうと・り・こである。とかなりそれたが本音である。まずなにがとりこか、ここで私の想いをすべて洗いざらい沖縄の海に空に太陽にむけて飛ばしてみようではないか。 それはそれはそれは〜〜!完全にアナログであるということ。日進月歩の現代社会。デジタルデジタルまたデジタルの現代日本である。デジタルが当たり前の現代にてアナログという言葉は新鮮である。なにがデジタルでなにがアナログか、私にとっては感覚的なものなので言葉にするのは難しいが簡単にいうとデジタルが機械的、冷たい、アナログが人間的、暖かい といった感じだろうか。三線は構造自体とてもシンプルで電気等のデジタルを一切介しない楽器である。音を増幅させもしないし、より小さく加工もしない。ゆえに純度アナログ120パーセントの至福の音と、デジタルに彩られた世界とはまるで違う極めて人間的で普遍的な世界が展開される。加工も小細工もない音がそのまま鳴るのである。よって強く弾けば強く鳴るし悲しいときは悲しく、穏やかなときは穏やかに。弾き手の心象風景や人となりがそのまま反映されるのである。すばらしい!これはとことんにと・り・こである。言葉を使わずして音のみでその人がどんな人かが聞き手に伝わるなんてなんだかとてもす・て・き。言葉がいらないということはどんな人種にも動物にもすべてに伝わるということだ。それがこの3本の弦を爪弾くだけでダイレクトに届くだなんてなんともナウロマンティックではないか。ごくたまにではあるが言葉なんてなくなればいいいのにと思うことがある、それは受け手によって伝えたい言葉が歪み、間違った解釈で受け止められ、相手との間に苛立ちや焦燥をうみ、やがて糸がもつれ落ちてしまう。とにかく言葉を介さないコミュニケーションというのは非常に荘厳なコミュニケーションのひとつであると思う。心と心を通いあわせるという言葉があるがまさしくこれである。心には言葉は必要ない。心と心がいったりきたり、包んだり、包まれたり。三線はそんな荘厳なそれをいとも簡単に可能にさせる力があると、私は確信している。三線の音につい 心 奪われてしまうのはそのせいなのだろう。ちょっとした小悪魔な恋泥棒なのである。そしてもうひとつ。 それはその音に様々なイメージが詰まっているということ。三線は和音を奏でるのではなく(すべてではないが)主に単音である。にもかかわらず和音をも超越した永遠のイメージが私の全身全神経、心を駆け巡る。それは海、それは太陽、それは風、朝焼け、母の胎内、砂浜、雨、空、鳥、雷、雲、全人類の笑顔。まさしく私が沖縄の地で体感したそれである。どこか懐かしくて暖かい感覚といえばいいだろうか。音を出すたびに限りないイメージが走り出す。驚愕以外の何者でもない。三線そのものが沖縄である。音色自体が波の音であり灼熱の太陽であり朝焼けで…うーん…マンダム。ロマンティックすぎる。なんだか切なくなってきました。ひとつの楽器がここまでの永遠性に近いイメージを内包しているだなんて考えただけでムフフと微笑みたくなってきますぜ。つい新しい発見をしたときは自然と顔がほころんでしまう。今これを書いている私。はい、そのとおりでございます。にやけゆうじでございます。
長々と思うがままなすがままに書いたが以上である。三線という言葉の響きはシンプルで実際みたまんまの構造もシンプルだが実に様々な魅力があるのだ。先述のとおりアナログで多様なイメージを持ち合わせている稀有な楽器である。弾けば弾くほど新しいイメージが湧き上がり、かつ懐かしい感傷に浸り、母親の胎内へと帰り羊水の中を泳ぐのだ。非常に穏やかな気持ちに包まれ安心するし空も飛べるのではないかという錯覚に、まぁあくまでも一時的にではあるが自分自身がとても強くなったような気持ちになる。三線ばんざい!君に乾杯!である。
今後道端で満面の笑みを浮かべながら歩いていたり全力で自転車を漕いでいる見るからに怪しい男をみかけたらそれは私である確率が高いと言えよう。なぜなら三線を夢想しているから。ついににやけてしまうのも今までの流れからして当然であり実際そうである。今後そういう怪しい男性をみかけたら、気楽な気持ちで「よ、丸野はん!」と声をかけてくれたら幸いである。きっと私はこう返すだろう「めんそ〜れ」と。


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